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先日レコーディングが終わって裏通りを相方と歩いていると
シャブ中が真っ最中で、自らの体躯に縛られ 葛藤していた。

 

右曲がりに歪んで行くオノレの上半身を、その両腕で抱え込もうとモがいているのだった。

それは自分自身への愛でも、存在したいっていう本能でもないような気がした。

たった今 そうせなならんくて
男はアガいた。

 

真夜中の通行人は皆無視してテクテク横を歩いてく。
全体的な画のシュールさに相方と感心する。

 

『イマフウやな。』

 

信号待ちで振り返るとまだやってた。

 

処女膜みたいに存在の曖昧な膜があって、
その膜は体のラインにそって、ぴったりある。

目や耳や鼻のあたりに殊その存在を感じることが多い。
破れるのはいつも唐突だったり、絶望的にゆっくりだったり

 

でも膜は、生まれてから死ぬまでその境界を風に揺らせたこともないみたいに
いつもあっさりそこにある。

破れている いま膜が破れたのだ と認知する瞬間でさえ、
その『何事もなかった』感がブレることはない。

破瓜の機会は 動いてるヒトやモノに多い。

 

動いてる、ゆうて

『夢に向かって邁進してる』とか『日々自分を高めようと精進している』なんかではなく

教育テレビなんかで 死んだ魚の目をしてカメラにグーチョキパーを繰り返す、
長生き☆健康ストレッチ!的な動き。

意思の介在と拘わリなく、物理的に『ウゴ』いてるとこによく顕現する。

 

ダンシングフラワーでも最期の一葉でも。

 

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子供の頃、遊んでいた雑木林にはナパーム(仮名)という少年がいた。

 

ナパームは当時流行っていた北斗の拳をソースに

 

『南北聖神拳』

 

という思索を放棄した乱暴な名前のコショバシ技を体得する、あんまり目立たない子供だった。

 

打倒ナパーム策に、
うんこガマンしてるとき以外の登下校時間と、図工以外の授業時間の全てを費やした。

 

ナパームはドもってるので、『南北聖神拳 最終奥義(序盤だろうがいっつも奥義。)』
って言いきるまでにもっそ時間がかかって、

ドもりで『な、な、な、な、、、』ゆうてる間にナパームをボコボコにしようと試みるものの
あっさりそれを言い終わられて呼吸困難で明日が見えなくなるほど こしょばされて土下座した。

 

一度、生協で買った木の板をシャツの下に仕込んでいったけど、
こしょばさがややこしくなっただけだった。

 

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30になったら色々楽になります。
おそらく有史以来20代が言われ続けてきたそれは。

 

きっとあらゆる形の様々な色の愛だったんだろうけれど。

 

それが示唆していたのであろう、なにか居直りじみた決意だったりとか。
びっくりするほど、ない。

 

それどころかここにきて

『プロレス技、ためさせて。』


もう誰にも言えないことに気がついた。

 

もう拮抗する誰かに抗う術に悩み、むやみやたらと意味のない動きに傾倒することが
社会的に当たり前ではなくなった冬。

 

30。
ちっとも楽ちがう。

 

誰にも何も与えずに消えてくものについて考えてみたり
なにやら不審な動きにウズウズしてみたり。

 

楽でないけど、
悪くもない。